先史時代 |
紀元前80万年 頃 |
カサブランカ付近にすでに人間が住んでいたらしい(アフリカで最古の石器が発見されている) |
紀元前5000年頃 |
東方からやってきた新しい部族が先住民と同化。ベルベル人の祖先と考えられる。 |
青銅器時代 |
紀元前1600年頃 |
ベルベル人は主に遊牧を営みながら、短刀、鉾、槍、斧などを使って狩りなどをした。 |
有史時代の始まり |
紀元前800~600年頃 |
ベルベル人によってリビア語の文字が考え出される。北方では定住民族が洞窟生活をし、南方では遊牧騎馬民族が狩りをしていた。 |
マウレタニアの誕生 |
紀元前4世紀 |
現在のアルジェリア西部とモロッコをあわせた地域はマウレタニアと呼ばれ、マウレタニアの王ユバ2世がローマ皇帝アウグストゥスによってこの国の王に任命され(前25年から後23年)、ヴォルビリスに都を構えた。 |
ローマの征服 |
後42年 |
ローマ軍がマウレタニアを征服し、2つの属州に分割した。533年ごろからビザンティン人や西ゴート族が次々とこの地を襲う。 |
イスラム化 |
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チュニジアに最初のイスラム都市カイルワーンを建設したアラブの首長オクバ・ベン・ナーフィが大西洋沿岸まで進撃、ベルベル人とビザンティン人はその勢力に飲み込まれていった。 |
740年 |
ウマイヤ朝の首都ダマスカスで大きな反乱が起り、モロッコはウマイヤ朝の支配から次第に遠ざかり、多くの王国と公国とに分裂した。 |
788~1055年 |
786年、予言者ムハンマドの娘婿アリーの子孫であるイドリス1世が一族の虐殺から逃れるためバクダッドからモロッコに避難した。788年、彼はモロッコ中央部のベルベル人の部族から「イマーム」として認められ、789年に最初の都フェズを建設し国の北部を統一した。792年にバクダッドのカリフの命により暗殺。イドリス1世のあとをついだイドリス2世は、王国の組織を固めるとともに領土を拡大した。イドリス2世の没後も王国は発展し、フェズは繁栄をきわめた(857年カラウィーン・モスクの建設、859年アンダルス・モスクの建設)。11世紀はじめ、イドリス朝はスペインのコルドバまで支配するようになったが、スペインの内紛のため王国は退廃。1055年にムラビト朝によって滅ぼされた。 |
1055~1144年 |
遊牧民のベルベル戦士の集団ムラビト朝は、脱イスラムを目指して北方に向かって勢力を拡大した。1069年にはフェズを征服し、1070年にはマラケシュに王都を建設。ムラビト軍はスペインまでその勢力を拡大したが、1114年バルセロナへの遠征に失敗した。 |
1130~1269年 |
マラケシュの南のティンマルで「マフディ(神に正しく導かれた者の意)」イブン・トゥマルトがイスラムの正当性を主張し、1121年ムラビト朝に対し反乱を起す。47年マラケシュが陥落し、イブン・トゥマルトの弟子アブド・エルムーミンを首長とするムワッヒド朝が誕生した。アブド・エルムーミンの後継者ヤアクーブ・エルマンスールはスペインのアンダルシアを征服、「勝利王」と呼ばれる。エルマンスールの死後、スペインで軍事的失敗が重なり、王国は分裂、弱体化する。 |
1269~1465年 |
ムールーヤ盆地出身のズナート系ベルベル人のマリーン家が、ムワッヒド朝の弱体化につけ込んでフェズ、ラバト、サレなどを征服。マリーン家のアブー・ユースフ・ヤアクーブがマラケシュで蜂起し、ムワヒッド朝の王位を剥奪した。マリーン朝は再び国をまとめ、スペインにも遠征隊を送った。1340年にスペインとアルジェリアを失ったが、ジブラルタルを確保、47年にはトレムセンとチュニスを奪回した。しかし、48年にはペストの大流行に加え、トレムセンとチュニスで反乱が起り、マリーン朝衰退の兆しが現われた。 |
1525~1659年 |
1507年以来、大西洋沿岸の港に定住していたポルトガル人はサハラ縦断交易でベルベル人らと戦争状態にあった。イスラムの聖者たちはジハード(聖戦)を説き、ドラア渓谷出身でムハンマドの子孫であるサアード家を首長として擁立した。サアード家の王エル・カイムは、1509年からポルトガルに対抗し、25年にはマラケシュを攻め落として新しい王朝を確立した。サアード朝の王たちは次々とポルトガル人を追い出し、領土を奪回していった。1578年「三王の戦い」に勝利した「黄金王」アフメド・エルマンスールは安全な黄金のルートを確立したが、1602年死去、王朝は分裂。 |
1666年~ |
予言者ムハンマドの娘婿アリーの子孫であるアラウィー家は15世紀中頃から独立した君主として権力をふるっていたが、1666年に正式にアラウィー朝を確立。創始者であるムーレイ・シェルフとその後継者はモロッコの再統一に努め、経済の発展と強力な軍隊を養成した。ムーレイ・イスマイル(在位1672~1727)は地方の宗教的・政治的権力を解体し、モロッコ王国の基礎を築いたほか、外交関係の強化のためフランスのルイ14世やイギリスのジェームズ2世と対等に取り引きを行った。ムーレイ・イスマイルの死後、国内は内戦状態に陥ったが、シディ・ムハンマドが小康状態を回復。エッサウィラを建設し、海外貿易のための開国を宣言した。しかし、かんばつやペストの流行、ムーレイ・スリマーンによる海路のジハード(聖戦)の停止、海上貿易の破綻などが国益に重大な打撃を与え、モロッコ王国は再び鎖国政策をとらざるを得なかった。モロッコはアルジェリアのアミール・アブド・エルカデールを支持したため、フランス軍およびスペイン軍による介入を相次いでうけ、独立維持のため軍事力の強化と国の近代化を目指したムーレイ・ハサンの努力にもかかわらず、モロッコはイギリス、スペイン、フランスから条約の締結を迫られ、外国の銀行からの借款を余儀なくされる。 |
1912~1956年 |
1906年、12か国が集まったアルヘシラス会議で、フランスとスペインがモロッコ国立銀行の代理人に指名された。在モロッコ外国人の暗殺を理由に1907年フランスはカサブランカを占領、同年、ムーレイ・ハフィードが国王となるが、2年後、スペインがリーフ地方を軍隊で征服することを企てる。11年、ムーレイ・ハフィードは反乱部族によって包囲されたフェズを解放するためフランス軍に出兵を要請したが、これによりモロッコはフランスの保護領条約を受け入れざるを得なくなった(1912年3月30日条約調印)。このとき領土の一部はスペインの委任統治下に置かれた。ムーレイ・ハフィードは退位し、弟のムーレイ・ユースフが王位を継承。同年、フランスのリヨテ将軍がモロッコ総督に着任する。彼はラバトを首都とし、都市計画専門家のレオン・アンリ・プロストに市街の近代化を依頼した。
ヨーロッパ人による支配に対する反乱は山岳地帯から始まった。1925年にリヨテ将軍が離任後は、フランスによる直接統治がすすみ、モロッコの権限を削減しようとした。これに対して都市部の青年層のエリートが集結してレジスタンスが組織された(第二次世界大戦中は国内のレジスタンスとフランスとのあいだで休戦条約が交された)。 |
1956年 |
1942年のアメリカ軍のモロッコ上陸と、43年アンファでのルーズヴェルト大統領の言葉は、モロッコ国内のナショナリズムを高揚させた。1944年、独立宣言。47年、タンジェで国王ムハンマド5世は独立の有効性とモロッコのアラブ諸国連盟への加盟許可を求める声明を発表。フランス政府との度重なる会議にもかかわらず、流血の事態を招き、1952年12月7日と8日、カサブランカで非常事態宣言が発せられた。1953年8月20日、ムハンマド5世は強制退位・追放となった。モロッコのレジスタンス政府は反仏抗争を展開、スペインがそれを妨害したが、フランスのインドシナ戦争での敗北と54年のアルジェリアの反乱は、フランス政府に政治的な解決を迫った。1955年11月16日、ムハンマド5世はついに追放から帰還し、フランスは56年4月7日、スペインは56年10月29日に独立を承認。 |
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ムハンマド5世が初めての憲法の大部分を起草し、その死後、息子のハッサン2世によって62年に発布された。63年に最初の総選挙を実施。同年、アルジェリアとモロッコ国境の砂漠地帯で両軍の戦闘が勃発し、64年以来、政府は政治的・経済的困難に直面することになった。70年、ハッサン2世は、第二次憲法を発布し、71年7月の国民投票により承認された。72年6月、ラバトで開かれたOUA(アフリカ統一機構)会議ではハッサン2世が議長を務めた。1975年11月、西サハラの植民地解放のためモロッコの人民を動員、「緑の行進」と称された。この結果、西サハラはモーリタニアとモロッコとに分割され、アルジェリアの支援とリビアの武器援助を受けたサギア・エル・ハムラとリオ・デ・オロ人民解放戦線(ポリサリオ)とは10年以上にわたり独立戦争を続けている。 |
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1999年7月23日、ハッサン2世死去、長男ムハンマド6世が新国王に即位。2003年5月16日にカサブランカでイスラム主義勢力によるテロ事件で41人が死亡。2006年8月には、ジャマーア・アンサール・アル=マフディーによるテロ未遂事件発覚。 |
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